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ダンスをもっと美しく、もっとナチュラルに。

ランドネ

何か手持ちの言葉では言い表しきれないように感じていたことを人から問われてふと、しっくりする言葉を見付ける時ってありませんか?

昨日の仕事帰りに久しぶりに会った友人と話している時に、それはどういうメソッドなの?とナチュラリゼーションのことを尋ねられて、メソッドとはちょっと違うなとまず思ったのです。

メソッド(method)という言葉を私も結構曖昧に使ってしまっていたりもしますが、私の中でそれは、何かとても方法論的な、しかも最短の道を与えられて従うような体系立ったものというイメージがあったんですね。

で、そうじゃないなら何だ?と暫く言葉を探しながら、フッと思い出したのが「ランドネ(randonnée)」という言葉だったのです。

どこからその言葉の記憶が引き出されたのか、忘れっぽくなったオツムでは浮かんだ当初は思い出せなかったのですが(^-^;、記憶の片隅に以下の文が残っていたのですね。

そのときは引用しなかったが、ミシェル・セールの『五感』(米山親能訳)という書物のなかに、目的地に向かって最短の道をとる方法――methodという単語はギリシャ語の「道に沿って」ということばに由来する――に対して、ランドネ〔遊歩道〕、つまりは散策の道、回遊の道を対置している。
『「聴く」ことの力』(鷲田 清一 著)

「聴く」ことの力: 臨床哲学試論 (ちくま学芸文庫)

「聴く」ことの力: 臨床哲学試論 (ちくま学芸文庫)

 

 

最短の道を進んだ方が速い、無駄が無い、それが相応しい時も場合ももちろんあると思います。そして、そうしたスピードや、無駄や失敗の無いものを私たちは求めがちかもしれません。
ですが、遊歩道を散策するようにちょっとこっちも行ってみよう(感じてみよう・動かしてみよう)と周辺を巡りながら進むうちに、ただ(ダンスという)目的地を目指して突き進んでいく中では学び取り切れなかった自分に必要な事、求めていたことを自然に学習しているという感じがあって、それが「ランドネ」という言葉としっくり馴染むように思うのです。

メソッドにはメソッドの良さがあり、ランドネにはランドネの良さがある。私は、そう思います。

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そして、ここからはちょっと脱線になりますが、上記の文を確認するにあたってこの本を読み返しながら、あとがきにあった以下のエピソードが心に残りましたので、ご紹介させて戴きますね。

ひとつは、ご自身のお子さんの話。古い卵と新しい卵の話。小学校で、古い卵と新しい卵を見分ける方法を習ったという。わたしたちの世代なら、表面がつるつるかざらざらか、水に浮かぶか沈むかなどといった見分け方を習ったようにおもうが、お子さんの場合、割って黄身が高く盛り上がっているのが新しく、黄身が平べったくなっているのが古いと教わったのだそうだ。そして、後で試験にこれが出た。「図のようなふたつの卵があります。あなたはどちらを食べますか?」お子さんは即座に平べったいほうと答えた。クラスメートは全員、盛り上がっているほうに丸をした。正解は盛り上がっているほう。こちらが新しいということであった。
お子さんはだから、平べったいほうを正解としたのだった。冷蔵庫から卵をふたつ取り出して、賞味期限に差があれば、まず古いほうから食べるというのがあたりまえだから。それがペケにされて、お子さんはずいぶんと傷つかれたという。
割って卵の新しさを確かめるというのがそもそも目的に反しているのだが、それはさておいて、この設問では「どっちが新しいですか?」という問いが「あなたはどちらを食べますか?」という問いに、あたりまえのようにスライドさせられている。この問いは設問として孤立していて、なんのために新しいか古いかを調べるのか、それが判ったらじゃあどうするのかというふうに、日常の生活のうちに位置づけられることがない。この知識は「身につく」ということがないし、使用されもしない。これに対して、ご両親が共働きのためじぶんで料理することも多かったお子さんは、はじめからそういう家事の文脈のなかでこの問いをとらえていた。
ひとは何を知るべきなのか、何か知るにあたいすることなのか、それを知ることが生きるということにとってどういう意味をもっているのか。現代の「科学」や「教科」がえてして切り離しているその問いを、このお子さんはきちんと視野に入れていた。臨床哲学はこの「ちいさな哲学者」の眼を忘れてはならないだろう。

 

教えられた正解を覚えて、答えたのではないこのお子さんの「経験に根差した哲学」が、傷つく結果になってしまったのは非常に残念ですが、もしもこの問題にあと一言「それは何故ですか?」という問いかけがあったなら、或いは問いかけた教師の方もクラスメートも視野の広がりを得る豊かな問いになっていたかもしれない。

問うこと、答えるということがただ正解の授受になってはいないだろうか。本当に「聴く」「訊く」問いかけができているだろうか。
私はそのようなことを、このエピソードから問いかけられたような気がしています。

 

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